谷梅處尼の墓
― たに ばいしょ に のはか ―
高杉晋作の死後、愛人 おうのは、晋作(東行)の菩提をとむらうため、東行庵に入りました。
そして明治14年 曹洞宗 総本山 永平管長久我環渓禅師が長府 功山寺に訪れたときに、髪を落として出家し、「谷梅處(たにばいしょ)」と名乗って、初代庵主となりました。
梅処尼は、日夜読経して東行の菩提をとむらい、明治42年(1909)8月7日 67歳でこの世を去りました。
「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、梅処尼に引き継がれたものです。 東行池にはたくさんの菖蒲が植えられていますが、花菖蒲(はなしょうぶ)は、梅処尼が最も好んだ花とされています。 6月の第2日曜日には「菖蒲まつり」が催されて、墓前祭も営まれます。
「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、梅処尼に引き継がれたものです。
東行池にはたくさんの菖蒲が植えられていますが、花菖蒲(はなしょうぶ)は、梅処尼が最も好んだ花とされています。 6月の第2日曜日には「菖蒲まつり」が催されて、墓前祭も営まれます。
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