中山神社

国指定史跡

中山忠光墓

 ― なかやま ただみつ はか ―

 昭和16年8月1日 指定
 所在 下関市綾羅木本町7丁目

 中山忠光は、弘化2年(1845)4月13日、大納言 中山忠能(−ただやす)の子として生まれ、安政5年(1858)に7才の祐宮さちのみや 後の明治天皇)につかえました。
 祐宮の母 中山慶子は忠光の姉で、忠光は祐宮の叔父にあたります。


 忠光は、幕末に尊攘派公卿の先頭に立って、馬関攘夷戦への参加、久留米藩で投獄されていた真木和泉らを釈放させるなど活躍しましたが、 文久3年(1863)8月、大和 天誅組の義挙(てんちゅうぐみ の ぎきょ)で敗れた後、長州にのがれ長府に潜伏しました。

 しかし長州藩でも、幕府恭順の俗論党の勢いが強まってきたため、忠光は各地を転々とすることとなり、元治元年
(1864)11月8日、高杉晋作功山寺で決起する、わずか ひと月まえに、田耕村杣地たすきむら そまち 現 豊北町)で、俗論党の手の者に暗殺されてしまいました。

 暗殺者たちはその証明のために、忠光の遺体を下関港から長州征伐本拠地であった広島に送ろうと、運んでいましたが、途中で夜が明けてしまい、遺体を綾羅木海岸に埋めました。
 翌日、遺体は奇兵隊によって発見され、翌 慶応元年
(1865)長府藩が墳墓の上に小社を建てて「中山社」とし、後に「中山神社」となりました。

 中山忠光の墓碑には、なぜか「藤原忠光」と刻まれていますが、それには2つの説があります。

 1つは、中山家をたどれば藤原家の出と言われている説。

 もう1つは、長州藩が中山忠光がこの場所に埋葬されている事を隠したかったという説です。
 中山忠光の暗殺は、維新を成し遂げた長州藩の正義派にとって汚点だったため、彼に関する資料は抹殺されていました。
 長州藩としては、中山忠光暗殺の事実は知られたくなかったのです。

 しかしそれならば、小社を建てて「中山社」としたのは、まったく矛盾している様に思えますが。

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