鎌倉時代 中期(1264〜73)、亀山天皇に仕えていた京都御所の武士 藤原基晴(―もとはる)は、宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し、三男 采女之亮政之(うねめのすけ まさゆき)を連れて、宝刀探索のため、当時 蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国の下関に下りました。
基晴親子は、当時 下関で髪結いをしていた新羅人(しらぎびと)からその技術を学び、往来の武士を客とした髪結所を開きました。
店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので、人々はいつからか「床の間のある店」と呼ぶようになり、それが転じて「床場」、「床屋」という屋号で呼ぶようになりました。 「床屋」という言葉は下関が発祥地となり、その後全国に広まっていっきました。
基晴は弘安元年(1278)に没し、市内の専念寺に葬られましたが、采女之亮は床屋を続けながら宝刀の探索を続け、豪商の協力によって、ついに宝刀を捜し出して、天皇に奉還しました。 その後 鎌倉へ移り住み、幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され、屋敷も賜って、代々その職を受け継いでいったということです。
基晴は弘安元年(1278)に没し、市内の専念寺に葬られましたが、采女之亮は床屋を続けながら宝刀の探索を続け、豪商の協力によって、ついに宝刀を捜し出して、天皇に奉還しました。
その後 鎌倉へ移り住み、幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され、屋敷も賜って、代々その職を受け継いでいったということです。
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