当時の建物は昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまって残っていませんが、本堂の石積みの形式から考えると、中国風の影響が強い寺院建築であったと思われます。
阿弥陀寺とともに朝鮮通信使の宿泊所として使われたり、明治28年(1895)に日清講和会議が下関で開かれた時には、李鴻章(りこうしょう)を始めとする清国の全権大使一行の宿泊場所としても使われました。
幕末には、報国隊の屯所になるなど、国事に活躍した功績により、藩主から毛利氏の菩提寺と同格の位と禄20石、扶持2人を授けられました。
戦災にも焼けずに残った三門は、市の指定文化財になっています。
この三門の天井にある龍の彫刻は、左甚五郎の作であるとも言われていて、夜な夜な人を襲っていたという伝説も残っています。
また、引接寺の僧に恋をした娘が、僧に変装してその思いを遂げたという「引接寺口説(いんじょうじくどき)」の舞台となったお寺でもあります。