下関駅周辺

萩藩 新地会所 跡

― はぎはん しんちかいじょ あと ―

 この石碑がある新地、今浦の辺りはは長州藩の本藩 萩藩の直轄地で、この場所には萩藩の下関での拠点 新地会所がありました。

 その昔、新地、今浦は、この新地会所跡 近くまで入り江になっていましたが、萩藩はそれを宝暦12年(1762)から、明和5年(1766)までの6年の歳月をかけて埋め立てました。



 この埋め立てに使用した土は、現在 桜山神社が建てられている辺りの土地を削り取ってあてたといわれ、維新前の土木工事としては、大事業でした。
 「新地」の名も、埋め立ててできた新しい土地ということからついた名前です。

 新地会所は、宝暦12年(1762)の工事着手と同時に、今浦にあった藩の御用所を桜山の下に移転させたもので、その頃はあまり大きな建物ではありませんでした。
 その後、米会所、八幡改方
ばはん あらため がた 密貿易監視役所)を置き、また、下関の町人たちに金融を始め、更に越荷方を観音崎に設置したために、その役所の係員が増えるにつれて次々と増築し、相当に広い敷地になったということです。
 新地会所の総面積は、58坪7合4勺
(193.87u)平屋建てだったという記録が残っています。

* * *

 第一次長州征伐後、長州藩の藩論は幕府恭順となっており、尊攘倒幕派の主だった人々は、投獄されるか、謹慎させられ、奇兵隊にも解散の命令が出ていました。

 1度は博多にまで逃れた高杉晋作も、このままでは日本は欧米諸国の植民地になってしまうと、意を決して下関に戻り功山寺で挙兵、まずこの新地会所を襲撃しました。

 「防長回天史」には、

 元治元年(1864)12月16日 午前4時ごろ、高杉晋作を始めとする奇兵隊が新地会所に鉄砲を撃ちかけたところ、奉行の根来上総(ねごろかずさ)が出てきて、会所を明渡すから少し待って欲しいというので、一行は東光寺と了円寺に分かれて待機していました。
 ところが、いくらたっても連絡がないため、再び襲撃をかけると、すでに軍資金や食料などは思ったほどなかった、と記されています。

●所在地 下関市上新地町1丁目 厳島神社 入り口横
●交通 JR下関駅から高尾線バス約5分「厳島神社前」下車すぐ
または、JR下関駅から徒歩約15分

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