日清講和記念館

日清講和会議 ― にっしん こうわかいぎ ―

 朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)東学党の乱をきっかけに開戦しました。
 この戦争は日清戦争と呼ばれ、戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、翌年 清国は日本に講和の打診を始めます。

 明治28年(1895)3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合いに到着し、翌日から下関の料亭 春帆楼(しゅんぱんろう)で日清講和会議が開催されました。

 この講和会議には、日本全権弁理大臣 伊藤博文と、清国講和全権大臣 李鴻章(りこうしょう)の2人を中心に、両国代表の11名が出席しました。




講和記念館に再現された会議の席

 講和に向けて会議は繰り返し行われましたが、その途中の3月24日、3回目の交渉を終えた李鴻章が、引接寺へ帰る途中に、小山豊太郎という青年に狙撃され、負傷するという事件が発生しました。

 この事件によって会議は一時 休会し、負傷した李鴻章には、明治天皇をはじめ、各方面からの見舞いが寄せられました。
 そして、李鴻章が無事快復した4月10日から会議は再開され、4月17日に講和条約が調印されました。
 このとき調印された講和条約は「下関条約」と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払いなどを約束しました。

 事件後、李鴻章は、引接寺まで大通りを避けて、山側の小道を通るようになり、その小道は、いつしか「李鴻章道」と呼ばれるようになりました。

春帆楼

 ― しゅんぱんろう ―

 明治の初め、医師の藤野玄洋が開業した月波楼(げっぱろう)医院を、のちに妻のミチが改装して、料亭兼旅館としたものです。

 伊藤博文や山県有朋がよく訪れ、豊臣秀吉が出した「ふぐ禁食令」を、伊藤博文が解禁し「公許第一号」の認可を受けた逸話は有名です。
 門を入った左手には、フグの像も建てられています。

 春帆楼の名も、伊藤博文がつけたものです。




現在の春帆楼

本陣 伊藤宅跡

日清講和記念館

赤間神宮

鎮守八幡宮

大連神社

紅石稲荷神社

みもすそ川公園

関門橋

関門トンネル
人道口

JH海峡プラザ

火の山

平家一杯水

.

.

.


逆路 ページ上へ 順路

q

日清講和記念館

春帆楼

q

日清講和会議q

.
.
.

トップページへ
トップへ