講和に向けて会議は繰り返し行われましたが、その途中の3月24日、3回目の交渉を終えた李鴻章が、引接寺へ帰る途中に、小山豊太郎という青年に狙撃され、負傷するという事件が発生しました。
この事件によって会議は一時 休会し、負傷した李鴻章には、明治天皇をはじめ、各方面からの見舞いが寄せられました。
そして、李鴻章が無事快復した4月10日から会議は再開され、4月17日に講和条約が調印されました。
このとき調印された講和条約は「下関条約」と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払いなどを約束しました。
事件後、李鴻章は、引接寺まで大通りを避けて、山側の小道を通るようになり、その小道は、いつしか「李鴻章道」と呼ばれるようになりました。