― しちきょう せんきょ の ま ―
功山寺の書院に、尊攘派公卿(くぎょう)が滞在していた部屋があります。
七卿とありますが、実際に滞在したのは、三条実美(さんじょう さねとみ)、三条西季知(さんじょう にしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとなが)、四条隆謌(しじょう たかうた)の5人で、澤宣嘉(さわ のぶよし)は、三田尻(防府)に着いた後 京都へ戻ると抜け、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)は、下関を視察中
病気にかかり亡くなっていました。
この書院は、天宝6年(1835)11代藩主 毛利元義が建てたもので、昭和54年3月1日に下関市指定史跡になりました。
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文久3年(1863)8月18日の政変によって、朝廷と幕府は協調する方針をとり、尊攘派の長州藩は皇居護衛の任を解かれました。
そのため、尊攘派の公卿 三条実美ら七卿を護衛し長州へ戻りました(「七卿落ち」)。
翌 元治元年 澤宣嘉の加わった禁門の変(蛤御門の変)、馬関戦争を経て、幕府より第1次長州征伐の兵が出される事になり、幕府へ従う方針に転換した長州藩は、その条件として、三条実美ら五卿を大宰府に移すことになりました。
それまで山口にいた五卿は、一旦 功山寺に移され、2ヶ月間(11月17日より1月14日まで)滞在した後、大宰府に移されました。
その間の12月15日の夜 高杉晋作は五卿の前で「今から長州男児の肝っ玉をお見せいたします」と決意を述べ、藩政を再び倒幕へ向かわせるため挙兵しました。