日頼寺

仲哀天皇 御嬪斂地

 ―ちゅうあいてんのう ごひんれんち―

 仲哀天皇は九州の熊襲(くまそ)征伐の途中、橿日宮(かしいぐう)で急死しました。
 神功皇后
(じんぐうこうごう)、天皇が死んだことを知らせると国が乱れるとして、遺体を豊浦宮(とようらのみや)まで密かに運ばせ、棺に収めたまま仮埋葬しました。
 その仲哀天皇を仮埋葬した場所が、この地だとされています。

 門の奥には、たくさんの小さな石を丸く積み上げた古墳のようなものがあります。



 この場所の他に、下関市の北に隣接する豊浦郡 華山(げさん)にも、仲哀天皇の仮埋葬の地とされる場所があります。

* * *

仲哀天皇・神功皇后伝説

 仲哀2年(193)3月 南国巡視中の仲哀天皇は、熊襲(くまそ)が朝廷に反抗したのを聞き、熊襲を成敗するため紀伊国(現 和歌山市)から穴門あなと 長門の古い呼び方)に向かいました。

 その頃 神功皇后(じんぐうこうごう)は、角鹿つぬが 現 福井県敦賀市)に滞在していたため、穴門で合う約束をして、6月に豊浦津(現 下関)で落ち合い、仮の皇居 豊浦宮(とようらのみや)を建てました。
 それから仲哀8年の正月に、筑紫の橿日宮
(かしいのみや)に居を移すまで、数えで7年間 現在の忌宮神社のある場所で政治を行ったとさます。

 橿日宮に移った仲哀天皇は、神懸りした皇后の神託を信じず、熊襲成敗を強行しましたが失敗し、翌9年2月に病死しました。
 一説では、神託の直後に神の怒りに触れて急死したとも、熊襲の流れ矢に当たって死んだとも伝えられています。

 神功皇后は、大臣の武内宿禰に遺体を密かに豊浦宮に運ばせ、そこで祭壇を作って仮の供養をし、埋葬しました。

 仲哀天皇の死後、神功皇后は神の助けを借りて新羅を降伏させ、帰国直後に応神天皇を産みました。
 そして皇軍を率いて熊襲を降伏させ、応神天皇元年
(201) 橿日宮から豊浦宮に移って仲哀天皇の遺体を収め、河内の長野陵(大阪府藤井寺市)に葬りました。

●所在 下関市長府侍町1丁目10-1
●お問合せ 日頼寺 TEL 0832-34-50384

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 この仲哀天皇御嬪斂地は、宮内省による調査の後、明治35年10月に、宮内省の管轄地となりました。