| さ 行 |
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| 坂本竜馬 【さかもと りょうま】 1835〜1867 |
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幕末の尊攘派の志士。
土佐高知藩の郷士。
名は、直柔(なおなり)。 変名は、才谷 梅太郎。
1862年 高知藩の政策に不満を持ち脱藩し、江戸で勝海舟に入門し、翌年 塾頭になる。
慶応元年(1865)より薩長同盟の成立に尽力し、第2次長州征伐では長州藩海軍を指揮した。
1867年 海援隊をつくり、「船中八策」を示し、大政奉還を実現させた。
新政府の理念を構想中 京都の近江屋で、中岡慎太郎とともに見廻組の刺客に暗殺された。 |
| 佐々木小次郎 【ささき こじろう】 |
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巌流島で宮本武蔵と決闘したとされる人物。
「物干竿」と呼ばれる刀身 三尺(約90cm)の長刀を操り、秘剣「燕返し」をつかったとされる。
しかし、その出生地や年齢など、不明な手が多く、架空の人物ではないとかいう説もある。
決闘の地であった島は、舟島(ふなしま)と呼ばれていたが、決闘以後、小次郎の流派「巌流」にちなみ、巌流島と呼ばれるようになった。 |
| 品川弥二郎 【しながわ やじろう】 1843〜1900 |
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明治の政治家。
長州萩藩出身。
松下村塾に入り、尊攘倒幕運動に参加。
薩長同盟に尽力し、戊辰戦争では東北各地を転戦した。
維新後の1881年 農商務省大輔となり、大日本農会、共同運輸会社設立に尽力した。
1891年 松方正義内閣の内務大臣となり、翌年 第2総選挙には大選挙干渉を行い辞職。
吉田松陰の意思を継ぎ、明治20年 京都に尊攘堂を建設。
長門尊攘堂の建設も計画したが、その途中で亡くなり、親しかった桂弥一に引き継がれた。 |
| 白石正一郎 【しらいし しょういちろう】 1812〜1880 |
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回船問屋 小倉屋の主人として実業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持ち、43歳の頃
国学者 鈴木重開(すずきしげたね)の門下に入って、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。
幕末には多くの志士と交流し、白石邸は志士たちのたちの集会場となった。
高杉晋作の奇兵隊結成も白石邸で行われ、自らも入隊して、その支援に全資産を投入した。
そのため店は傾き潰れてしまったが、維新後は、赤間神宮の初代宮司となった。
白石正一郎の残した日記をはじめ、正一郎が道を開いた薩長交易関係記録、百余人の志士の書簡などは、維新史料として貴重なもので、『白石家文書』として市指定有形文化財(古文書)に指定されている。
その写しは、下関市立図書館で読むことができる。 |
| 神功皇后 【じんぐう こうごう】 |
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仲哀天皇の皇后。
開化天皇第5世の孫 息長宿禰王の娘。
名は、息長足姫(おきながたらしひめ)。
記紀によると、三韓出兵の中心人物で、仲哀天皇の急死後、妊娠中でありながら武内宿禰とともに朝鮮半島に出陣して、新羅、百済、高句麗を従え、帰国直後
応神天皇を産んだという。 |
| 塵輪 【じんりん】 |
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熊襲に扇動され、豊浦宮に攻めてきた新羅の軍の首領。
雲に乗って空を飛び、空から矢を放って皇軍を苦しめたが、仲哀天皇の放った矢により射殺された。
その顔が鬼のようであったため、その首を埋めて岩を置いて封印し、鬼石と名づけられた。
その岩は、今も忌宮神社にのこっている。
この時の勝利の様子が、奇祭 数方庭祭の起源とされる。 |
| 陶晴賢 【すえ はるかた】 1521〜1555 |
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室町末期の武将。
大内義隆の家臣。
興房の子。初名は、隆房。
1551年 謀反を起こして義隆を自殺させ、その後 豊後の武将
大友宗麟の弟 晴英を迎えて大内義長を名乗らせ、自ら国政をとって名を晴賢に改めた。
1555年 厳島の戦いで毛利元就に敗れ、自刃。 |