| か 行 |
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| 桂彌一 【かつら やいち】 1849〜1939 |
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明治の事業家。
長府藩士 桂助左衛門の末子として生まれる。
名は 季澄 通称を 常槌、勇次郎。
元服後 彌市から彌一へ。
幼い頃より同年輩の乃木希典と親交を深め、集堂場の前身である桜柳亭に入り、福田扇馬に学ぶ。
馬関攘夷戦には若年ということで参加できず、長府報国隊に、乃木希典、熊野則之、福田扇馬らと入隊、各地を転戦した。
維新後は、脚気にかかって長府に帰り療養。
農寮試験場で働き、植林事業などにも乗り出した。
親交の深かった品川弥二とともに長門尊攘堂の建設に尽力し、昭和7年に起工、翌8年に完成した。
昭和14年 6月19日 いつものように畑を見まわった後、自宅で急変し死去。 |
| 金子みすず 【かねこ みすず】 1903〜1930 |
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明治36年(1903) 山口県 大津郡 仙崎村(現 長門市 仙崎)に生まれる。
本名は、テル。
3歳で父を亡くし、大正12年(1923) 母の再婚先である下関の上山文英堂
本店に移り住み、詩を書き始める。
わずか5年間に、万物への優しさを込めた512編の作品をつづり、若き童謡詩人の巨星として注目された。
昭和5年(1930)本意でなかった結婚が破局を迎え、愛する娘とも別れることとなり、その心痛から睡眠薬を飲んで自殺した。 |
| 狩野芳崖 【かのう ほうがい】 1828〜1888 |
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明治初期の日本画家。
本名 幸太郎。
長州 豊浦藩の絵師の家に生まれる。
幼い頃より絵の才能を発揮し、19歳のとき、上京して狩野勝川に学び、橋本雅邦と並び称された。
明治初期の伝統芸術が顧みられなかった時期には生活にも困ったが、フェノロサ、岡倉天心に認められて、日本画革新の運動に参加。
東京美術学校の設立に参加したが、開校を見ずに死去。
代表作は「悲母観音図」「不動明王」など |
| 玉仙尼 【ぎょくせんに】 1920〜1989 |
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東行庵の3代目 庵主。
本名 末成チカ。
大正9年 下関市外浜町(現
中之町)に生まれ、5〜6歳の時に相次いで両親を亡くし、親戚の手によって東行庵につれてこられた。
26歳のときに、3代目 庵主となり、昭和41年 東行100年記念事業として、維新の志士たちの功績を人々に伝えるため、県内だけでなく東京、大阪の企業をまわっては、頭を下げて寄付金を集め、東行記念館を設立。
さらに昭和46年からは、各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養した。
また東行庵の隣接地に、吉田保育園をつくり、東行120年祭の記念イベントとして「海峡ウォーク」を行った。
「海峡ウォーク」は、今では下関の恒例行事となっている。 |
| 久坂元瑞 【くさか げんすい】 1840〜1864 |
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幕末の志士。 長州 萩藩士。
字は、実甫。 号は、江月斎。
通称 義助。
吉田松陰の妹婿となった。
吉田松陰に学び、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と言われた。
1862年 脱藩上京し、長州の藩論を尊王攘夷路線に変えることに成功し、下関の外国艦隊砲撃などに参加したが、元治元年(1864)兵を率いて京都に入り、禁門の変で会津・薩摩等の兵と戦い負傷、自刃した。 |
| 熊襲 【くまそ】 |
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記紀において、九州南部に居住した種族。
倭建命(やまとたけるのみこと)により平定されたが、その後 仲哀天皇の時代に再び朝廷に反抗した。 |
| 建礼門院 徳子 【けんれいもんいん とくこ】 1155〜1213 |
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父は平清盛。母は時子(二位尼)。
名は徳子。
高倉天皇の皇后となり、安徳天皇を産む。
1183年 平氏とともに西走、壇之浦の戦いで入水したが、源氏に助けられて京都に帰り、剃髪して真如覚と号し、大原の寂光院(じゃっこういん)に住んだ。 |
| 此の糸 【このいと】 |
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⇒ おうの |